明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく
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愛読していたほんのひとときのエッセイからたどり着いて読む。列強に分割される前の旅行記として面白い。
枝葉末節で以下のような細かい点が気になった。
- 手稿を転記した文に「官衛」とあるが、「官衙」であろう
- p.144「ふたりの男の子もいたが、1909(明治42)年に伝染病で長男道助(6歳)と重子(30歳)をイスタンブルの地で相次いで失った。」→これでは榮一の妻・重子が男の子みたいだ
- p.289「…『自国の建築史を書きたい』と考えた忠太が出会ったのが、日本の国史編纂とも関わりのあるゼルフィの著作だったのは、奇遇だろうか。」→反語にすると、真意は<奇遇ではなかった>ことになってしまうので、「~奇遇であった。」または「~奇遇といえないだろうか。」が適切かと